自分を負かす男に渡したクラブ
気難しい名手が、憧れの選手へ用意したアイアン。そのクラブが、自分の五勝目を阻むことになる。
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ベン・ホーガンの物語を聴く
約8分43秒 · 一人語り

ベン・ホーガン(左)とフォード大統領。1974年9月11日、パインハーストの世界ゴルフ殿堂式典。
写真:David Hume Kennerly / Gerald R. Ford Presidential Library / 出典 / パブリックドメイン(ホワイトハウス公式写真)
公式コンタクトシートA0710のフレーム3を切り出し、WebP変換。本文で扱う1950年代の写真ではありません。
著書『モダン・ゴルフ』で近代ゴルフのスイング理論に大きな足跡を残したベン・ホーガン。米国男子ツアー通算64勝、メジャー9勝を挙げた、ゴルフ史を代表する名手である。
ベン・ホーガンの全米オープン五勝目を阻んだのは、ホーガンのアイアンを使った男だった。
1955年、サンフランシスコのオリンピック・クラブ。ジャック・フレックという、まだ大きな勝利のない選手が、プレーオフで大本命を倒した。
そのクラブをフレックに用意したのは、ほかならぬホーガンである。大会会場では、ウェッジまで本人が手渡していた。
無愛想で、勝負に厳しく、気軽には近づけない。そんな男として語られるホーガンには、この出来事がよく似合う。人に愛想を振りまくのは得意でなくても、ゴルフに向き合う相手には、別の接し方があった。
ただ、この勝負の意味を知るには、少し時間を戻したい。フレックにとってホーガンは、ただの有名選手ではなかった。練習の仕方や立ち居振る舞いまで見つめていた、憧れの人だった。
明るい相棒も笑わせにくい男
ホーガンの人柄を知るには、ジミー・デマレーという相棒がいるとわかりやすい。
派手な服を着て、冗談を飛ばし、ときにはナイトクラブで歌う。ゴルフも一流だが、ゴルフ場の外でも人を楽しませられる男だった。
片やホーガンは、練習熱心で、ひどく真面目。二人は十代からの友人で、ペアの試合でも何度も勝っている。ところが、そのデマレーでさえ、ホーガンから笑いを引き出すのは簡単ではなかったという。
そんな相棒について、ホーガンが認めていたのは、やはりゴルフだった。一緒にプレーするときはふざけず、球を操る技術に並外れたものがある。そういう趣旨の言葉を残している。
歌がうまい。話が面白い。そういう褒め方ではない。
人を楽しませる男と、球筋で人を見る男。それでも二人は、組めば強かった。ホーガンのそばにいるには、同じように無口になる必要はなかったのだろう。少なくとも、いいショットは、この男に届く言葉だった。
妻の方へ身を投げた朝
1949年2月2日。ホーガンは妻のヴァレリーと、テキサスの道を車で走っていた。
濃い霧の中、トラックを追い越そうとしたバスが、こちらの車線へ出てきた。
衝突の直前、ホーガンは妻をかばうように身を投げ出した。衝撃でハンドルの機構が車内の後方まで押し込まれたため、運転席から体を移したことは、彼自身の命を救うことにもなったと伝えられている。
ヴァレリーは軽傷で済んだ。一方のホーガンは、骨盤や足首、鎖骨などを折る重傷を負う。入院後も血栓で命を脅かされ、緊急手術が必要になった。
このとき問われていたのは、次の大会に間に合うかではない。再び歩けるのか。そもそも、生きて病院を出られるのかということだった。
のちにホーガンは、恐ろしい集中力でゴルフに戻ってくる。けれど、その話の最初にあったのは、スイングでも、勝利への執念でもない。
隣にいた妻の方へ動いた体だった。
椅子を使いながら全米オープンを戦う
翌1950年、ホーガンは競技に復帰した。
復帰とはいっても、事故の前の体に戻ったわけではない。脚の腫れを抑えるために包帯を巻き、出場する試合も絞った。球を打つ技術だけでなく、コースを歩き切れるかどうかが問題になった。
6月の全米オープン。会場は米国ペンシルベニア州のメリオンだった。
今とは違い、当時の最終日は一日に36ホールを回る。普通に歩ける選手にも厳しい日程だ。ホーガンは大会中、ショットの合間に折り畳み椅子を使って脚を休めていた。
勝ち方を知っている男が、立って待つ時間まで節約している。
最終ラウンドの18番。ここをパーで上がれば、優勝を争うプレーオフに残れる。
ホーガンは、長い距離を打つための1番アイアンで、ボールをグリーンへ運んだ。その姿は写真にも残り、ゴルフ史を代表する一枚になる。だが、この一打で優勝したのではない。二つのパットでパーを取り、ようやく翌日の勝負へ進んだのだ。
36ホールを終えた脚で、さらにもう一日、18ホールを歩く。
そのプレーオフを勝ち切り、ホーガンは全米王者になった。事故から、およそ16か月後のことだった。
あの写真には、クラブを振り抜いたホーガンが写っている。椅子に座って休んだ時間も、翌日また歩いた18ホールも、一枚の中には写らない。
そこまで含めて考えると、あの一打は、ずいぶん違って見える。
王者なのに予選から出る
1953年、ホーガンはマスターズと全米オープンを勝ち、初めて全英オープンへ向かった。
それほどの選手であっても、当時は予選を免除されない。スコットランドのカーヌスティへ来た大スターも、ほかの出場希望者と同じく、まず予選を通った。
しかも、米国での勝ち方をそのまま持ち込んだわけではなかった。当時の英国では米国より小さい規格のボールが使われていた。地面の性質も違う。ホーガンは近くのパンミュアで、その球とリンクスの芝に慣れるために練習を重ねた。
大勢の選手で混み合うカーヌスティの練習場を離れ、キャディと準備する。
勝ってきた実績はある。しかし、まだ打っていない球、まだ覚えていない土地がある。
ホーガンの強気は、その違いを無視することではなかった。違うなら、出向いて確かめる。世界の頂点にいる男が、初めてのボールを打ち、予選から大会に入っていく。その姿に、この男のゴルフとの付き合い方が出ている。
そして彼は、一度きりの全英出場で優勝した。
憧れの人へ出した手紙
その二年後、ジャック・フレックは、ホーガンの会社がつくったアイアンを見た。
自分も使ってみたい。ホーガンに手紙を書いて頼めないだろうか。
周りのプロたちに相談すると、やめておけと言われたという。それでも、フレックは手紙を出した。
返ってきたのは、自分に合うクラブの仕様を知らせるように、というホーガンからの返事だった。
気難しい大物に無視されるかと思ったら、クラブをつくるための話が始まった。
そして1955年の全米オープン。フレックは、そのアイアンを携えてオリンピック・クラブへやって来た。ホーガンは大会会場で、そのセットに加えるウェッジを本人に渡している。
この時点では、ただクラブを使いたい選手と、用意した人の関係である。
数日後、二人は全米王者を決めるプレーオフで並ぶことになる。
一人は、全米オープンで五度目の優勝を狙う大スター。もう一人は、その大スターに憧れ、練習の仕方まで手本にしてきた選手だった。
勝ったのは、フレックだった。
ホーガンが用意したクラブは、ホーガンを倒す役に立ったのである。
だが、そこでホーガンがフレックを祝福したことも、その後も敬意をもって接したことも、全米ゴルフ協会の回顧に残っている。
五勝目を狙っていた大会で、自分に憧れていた選手に敗れる。勝者としての姿ではなく、負けたあとの態度まで、この男の話には残っている。
五勝目を逃したホーガンの手元に、優勝杯は来なかった。その代わり、新しい全米王者のバッグには、彼の名を冠したアイアンが入っていた。