アンソニー・キムはどう戻ったのか
GOLF DNA編集部🌐

3行まとめ
- 約12年の競技空白から2024年に復帰したアンソニー・キムは、2025年にフルタイム枠を失った。
- そこから予選会3位で2026年の出場権を取り戻し、約16年ぶりの優勝へ。
- 復帰、降格、再資格、現在地までを追う。
2012年、アンソニー・キムのPGAツアーでの最後の出場はウェルズ・ファーゴ選手権だった。初日74のあと棄権。公式記録では、その年5月に左アキレス腱の手術を受け、シーズンを止めている。
その後、プロ競技の表舞台から約12年離れた。長い空白を一つのけがだけで説明するのは正確ではない。現在のLIVゴルフ公式プロフィールには、複数の手術に加え、本人が語った私生活上の問題など複数の要素が記されている。
2024年、まずはワイルドカードで戻った
キムがプロ競技へ戻ったのは2024年3月のLIVゴルフ・ジェッダだった。復帰時の立場はチーム所属の固定選手ではなく、残るレギュラーシーズン大会へ出場するワイルドカード選手。個人ポイントを積み、翌年の出場につなげる立場からの再出発だった。
12年ぶりに戻ったからといって、そのまま順調に席を確保したわけではない。
2025年の最終順位は55位タイ、個人ポイントは0.00。LIVゴルフの公式記録では降格扱いとなり、フルタイム枠を失った。
出場権は予選会で取り戻した
そこでキムが進んだのが、2026年の出場枠を争うLIVゴルフ・プロモーションズだった。
2026年1月11日の最終結果は66、69の通算5アンダーで3位。この大会では上位3人に2026年フルシーズンのワイルドカードが与えられ、キムは最後の1枠を自分のスコアで取り戻した。
さらに2月12日、4エーシズGCへの加入が発表された。復帰から約2年で、ワイルドカード出場、降格、予選会突破、チーム加入という段階を踏んだことになる。
そして3日後、約16年ぶりに勝った
4エーシズ加入発表の3日後、LIVゴルフ・アデレードで流れが大きく変わった。
キムは67、67、68で最終日を迎え、首位と5打差から63を記録。4日間通算23アンダーで優勝した。公式プロフィールでは、これが2010年以来、約16年ぶりのタイトルとして記録されている。
「12年ぶりに戻った選手が突然勝った」と見ると、この途中が抜け落ちる。実際には2024年に復帰し、2025年にはフルタイム枠を失い、2026年1月に予選会から出場権を取り直している。その直後にチーム枠を得て、優勝まで進んだ。
優勝がゴールではなかった
2026年9月9日時点で、キムはレギュラーシーズン13大会のうち12大会を終え、個人ランキング7位、320.31ポイント。4エーシズGCに所属している。
アデレード優勝後も出場を続け、バージニア6位タイ、英国大会12位など上位結果を残す一方、ニューヨーク51位、インディアナポリス34位タイという大会もあった。
つまり、復活を一度の優勝だけで切り取るより、競技者として年間を通じて再び順位を争う位置へ戻ったことの方が現在地を表している。
何が復活を生んだのかを、一つのコーチ、一つのクラブ、リーグ形式だけに結びつける一次資料は確認できない。公表記録から確実に追えるのは、2012年の離脱から12年後に競技へ戻り、一度は出場枠を失い、それを予選会で取り返し、約16年ぶりの勝利と2026年個人7位まで進んだという道筋だ。
アンソニー・キムの復帰は一本の急上昇ではなかった。戻る、落ちる、取り返す、勝つ。その段階を一つずつ通った復活だった。
出典:LIV Golf(2・3・4・5・6・7・8) / PGA TOUR
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