ジャック・ニクラウス――息子の前で、もう一度勝った
米PGAツアー73勝、プロ四大メジャー18勝。ライバルとの勝負、家族との時間。そして46歳の父が、息子の前でもう一度勝ったマスターズ。
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ニクラウス父子(2006年4月5日、マスターズ前のパー3コンテスト)。本文の1986年の優勝から20年後。
写真:pocketwiley / 出典 / CC BY 2.0
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1986年のマスターズ。46歳のジャック・ニクラウスのバッグを、24歳の息子が担いでいた。
父は、ゴルフ界の大スターだ。米PGAツアー通算73勝、プロの四大メジャー18勝。マスターズ6勝、全米プロ5勝、全米オープン4勝、全英オープン3勝。その最後の一勝を、これから息子の目の前で取りにいく。
「ゴールデンベア」と呼ばれた男である。
ただ、この日までの道のりは、ずっと拍手に包まれていたわけではなかった。
若い頃は、みんなが応援する選手を負かしてしまう男だった。勝ち続けるうちに、今度は、自分が負かされる側にもなった。
それでも、勝負がしたかった。 息子にバッグを預けて、また、オーガスタへやって来た。
人気者を負かしてしまった22歳
ニクラウスは、オハイオ州コロンバスで育った。1959年と1961年に全米アマチュアを勝ち、1960年の全米オープンでは、アマチュアのまま2位になっている。まだプロになる前から、優勝争いの真ん中にいた。
1962年、プロ一年目の全米オープン。 22歳のニクラウスは、オークモントでアーノルド・パーマーと並んだ。
会場は、パーマーの地元に近い。 観客が勝ってほしいのは、パーマーだった。
その応援は、ときにニクラウスへの無礼な振る舞いになった。PGAツアーが伝える回想には、彼を応援していたアメリカンフットボールの名将ウッディ・ヘイズが、観客に食ってかかりそうになった話まで残っている。止めたのは、ニクラウスの父親だった。
周りの大人が、それほど腹を立てる中で、22歳の本人は勝負を続けていた。
翌日の18ホールのプレーオフは、ニクラウス71、パーマー74。三打差で勝った。
最後のグリーンでは、パーマーがニクラウスのボールマーカーを拾い、敗北を認めて祝福しようとした。 ところが、これはマッチプレーではない。まだ、カップまで入れなければいけない。競技委員に促され、マーカーを戻してプレーを終えることになった。
相手がもう負けを認めているのに、全米オープンは、最後の一打まで打たせる。
これが、ニクラウスのプロ初優勝だった。
今度は、自分がマーカーを拾った
七年後、ニクラウス自身が、相手のマーカーを拾う。
1969年のライダーカップ。英国のロイヤル・バークデールで、トニー・ジャクリンと最後のシングルスを戦っていた。
18番で、ニクラウスは最初のパットを打ちすぎた。それでも、返しのパーパットを沈める。 ジャクリンには、短いパットが残っていた。
それを打たせれば、外すかもしれない。 入れば、引き分けになる。
ニクラウスは、カップから自分の球を取り出すと、ジャクリンのマーカーも拾った。そのパットを、打たなくていいと認めたのだ。
相手が外すとは思わない。だが、この状況で、外す機会を与えるつもりはなかった。 後に伝えられた言葉は、そういう意味だった。
大会は16対16。史上初の引き分けになり、前回勝っていた米国がカップを保持した。
誰もが喜んだわけではない。米国主将サム・スニードは、この判断を歓迎しなかった。
勝てる可能性を、最後まで取りにいくべきだ。 チーム戦なら、そう考える人がいるのも分かる。
それでもニクラウスは、あのパットを打たせなかった。 この一場面は、のちに二人の名を冠した賞の由来になった。
強くなってほしくない相手を、励ましてしまう
ニクラウスの人柄を知るには、リー・トレビノとの話も面白い。
1971年の春。 ニクラウスは、マスターズへの出場を見送っていたトレビノに、君は自分の実力を分かっていない、どこでも勝てる、と励ました。
自信をつけて、本当に勝たれては困る相手だ。
その年の全米オープンで、二人はプレーオフになった。 ニクラウスは、三打差で敗れた。
トレビノの球を打つ技術を認め、もっと自信を持てと伝えた。 その相手が、自分を破っていった。
1977年の全英では、トム・ワトソンに敗れる。 最終日に66で回り、最後には長いバーディーパットまで入れたのに、相手が65を出した。
その二人は、肩を組んでグリーンを離れた。
メジャー18勝の陰には、2位も19回ある。 勝ちに来たのに、ほかの誰かが優勝杯を持って帰る。ニクラウスは、その経験も山ほどしていた。
その一つが、あのターンベリーだった。勝ちたかった相手と、肩を組んで帰った。
スニードのリズム、ホーガンの球筋
後年、好きなスイングを尋ねられると、ニクラウスはスニードのリズムや、ホーガンが球を操る技術を挙げた。
師のジャック・グラウトからは、自分が採り入れるかどうかに関係なく、いろいろな打ち方を知っておくよう教わったという。
あの強さがあっても、ほかの選手を見て学んでいた。
46歳の父親と、24歳の息子
話を1986年のオーガスタへ戻そう。
この週、バッグを担いだのは、長男のジャッキーだった。本名は、父と同じジャック・ニクラウス。ジャッキーの愛称で呼ばれる長男だ。
母ヘレンや姉マリリンも、大会を見に来ていた。
ただ、家族が集まったからといって、優勝の予定があったわけではない。ニクラウス自身、後年の取材で、この大会は自分も優勝を予想していなかった、と振り返っている。
それでも、長く磨いてきた技術は残っていた。勝負の中で、それを出せるかどうかだった。
最終日の15番、パー5。 ニクラウスはイーグルを奪う。
続く16番で、選んだのは5番アイアンだった。 父の打った球が、ピンへ向かって飛んでいく。
ジャッキーが、距離が合っていてくれ、と声を上げる。 父は、合っている、と返す。
まだ球は空中にある。 息子は願い、父親は、もう答えを出していた。
球はピンの近くへ寄り、バーディーになった。
17番でも、バーディーパットを沈める。 ニクラウスは、パターを掲げた。
あの姿を見たことがある人なら、金色の髪と黄色いシャツ、伸ばした左腕まで、すぐ思い出すかもしれない。
後半の九ホールは30。最終日は65だった。
ホールアウトしても、まだ優勝は決まっていない。ニクラウスは、ほかの選手たちがプレーを終えるのを待った。
そして、六度目のマスターズ優勝が決まった。46歳だった。
優勝したばかりなのに、母親は息子の話をした
大会後、PGAツアーの記者ヘレン・ロスは、ニクラウスの妻バーバラに話しかけた。
夫が、いま、六度目のマスターズを勝ったばかりだ。 ところが、バーバラが話し始めたのは、息子のことだった。
ロスは以前、大学でゴルフをしていたジャッキーを取材していた。 バーバラは、息子についていい記事を書いてくれたことを、覚えていて、礼を言ったのだ。
世界中が夫の優勝に沸いている時に、この人は、息子を見てくれた記者へお礼を言っていた。
ニクラウス夫妻には、五人の子供がいる。 後年、本人は、競技成績をもっと良くする余地はあったかもしれないが、家族との関係をどんな優勝とも交換するつもりはない、と話している。
あれほど勝つことに執着した男が、自分の成績を増やす話になった時には、家族の方を選ぶ。
勝つ場所をつくり、家族と仕事を続けた
ニクラウスは、選手として戦いながら、コースもつくった。 1974年にミュアフィールド・ビレッジを開き、1976年にはメモリアル・トーナメントを始めている。
過去の名手をたたえ、いまの強い選手が戦い、地域の慈善活動にもつながる大会をつくった。
ただ、大会を始めたら、自分のスコアだけを考えてはいられなかった。
第一回のメモリアルで、ニクラウスは、吸い殻や紙くずをキャディーのポケットへ詰め込んでいたと振り返っている。コースをきれいにしたくて、プレーより、大会をきちんと開くことが気になっていたのだという。
優勝争いをする大スターが、ゴミまで気にして歩いている。 自分でつくった大会には、そういう顔で出ていた。
翌年は、その大会で、自分が優勝した。
2004年には、妻バーバラとともに、子供たちの医療を支援する財団を設立した。 この仕事も、夫妻で続けてきたものだ。
優勝杯を集めていた時も、自分の大会を育てる時も、家族がそばにいた。
1986年のマスターズについて、ジャッキーは後年、自分は一番いい席で見ていた、と話している。
父親が、六度目のマスターズを勝つ。 その十八ホールを、バッグを担ぎ、すぐ隣で見ていた。
これよりいい観客席は、ちょっと思いつかない。