リー・トレビノ――ポケットに2ドル、勝負は5ドル
米PGAツアー29勝、メジャー6勝。笑わせるのは得意でも、勝ちは譲らない。ゴムのヘビとチップイン、落雷後の復帰まで、リー・トレビノの物語。
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約9分12秒 · 一人語り

リー・トレビノ(2010年4月19日、米ジョージア州サバンナ)。本文の1960〜1980年代より後の写真。
写真:Keith Allison / 出典 / CC BY-SA 2.0
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米PGAツアー29勝、メジャー6勝。全米オープン、全英オープン、全米プロを二度ずつ制したリー・トレビノは、プレッシャーの話をする時、ずいぶん小さな金額を持ち出した。
ポケットには2ドルしかない。それなのに、5ドルを懸けてゴルフをする。
負けたら、賞金が減るだけでは済まない。払う金が足りないのだ。大舞台を何度も勝った男は、そんな勝負を知っていた。
コースではよくしゃべり、よく人を笑わせた。だが、笑っている相手と、気楽に勝負ができるとは限らなかった。
家から百ヤード先に、別の暮らしがあった
メキシコ系アメリカ人のトレビノは、テキサスで母と祖父に育てられた。五歳でタマネギ畑や綿花畑の仕事を手伝い、のちに住んだ家には、電気も水道もなかった。
その家から百ヤードほどのところに、グレンレイクス・カントリークラブがあった。
一方には、ゴルフを楽しみに来る人たちがいる。すぐ近くには、働いて家計を助ける子供がいる。少年がゴルフ場へ入ったのは、キャディーとしてだった。
やがて海兵隊で四年間を過ごし、戻ってからも、最初からツアー選手を目指していたわけではない。働きながら球を打ち、ほぼ独学で腕を上げた。
本人は後年の取材で、当時のゴルフは裕福な人の遊びに見え、自分にその先の仕事があるとは思っていなかった、と振り返っている。
その少年が、のちに全米オープンで勝つ。けれど、その前には、大会の優勝杯よりも、目の前の相手から勝ち取る金が大事な時期があった。
フェアウェイを、観客のトラックがついてくる
エルパソのクラブで働いていた頃、トレビノはプロの仕事だけでなく、ロッカーの世話やカートの仕事もした。週給は30ドル。勝負で得る金が、それを上回ることもあった。
ある時、レイモンド・フロイドがやって来た。のちにメジャーを四度勝つ、手ごわいプロである。
二人は何日もかけて勝負した。トレビノの回想では、観客はピックアップトラックに乗り、ビールを飲みながら、フェアウェイをついてきたという。
二人がティーショットを打つ。その後ろを、男たちを乗せたトラックが追いかける。トレビノ自身も、あれはおかしな光景だったと振り返っている。
ただし、勝負は真剣だった。初めの二ラウンドは、地元のコースを知り尽くすトレビノが勝った。フロイドは、三日目に素晴らしいゴルフをして、ようやく勝ち返した。
トレビノは、相手を笑わせることもできる。だが、相手の金まで気前よく返してくれるわけではなかった。
ホーガンの球を見て、自分の球を変える
トレビノには、どうしても直したい癖があった。球が左へ大きく曲がるフックだ。ある時、名手ベン・ホーガンの練習を見る。ホーガンの球は、左から右へ曲がっていた。
トレビノは、そのフェードを自分でも打てるように練習した。
右打ちなら、球が少し左へ出て、右へ戻ってくる。曲がる方向と幅をつかめれば、狭い場所でも狙いを定められる。
やがて、その球筋が彼の武器になる。
人とは少し違うスイングでも、欲しい場所へ球を運べればいい。誰かと金を懸けている時、格好の良さを採点してくれる人はいない。
全米王者のバッグから、ヘビが出る
1968年、オークヒルでの全米オープン。28歳のトレビノは、四日間すべてを60台で回り、ニクラウスに四打差をつけて優勝した。
そして三年後、メリオン。今度はニクラウスと同じスコアで72ホールを終え、翌日、18ホールのプレーオフを戦うことになった。
その大事な朝、バッグの中からグローブを探していたトレビノが、ゴムのヘビを取り出した。
観客が沸く。
この場面は、ニクラウスにヘビを投げつけ、驚かせて勝った話として語られることがある。ところが、ニクラウス本人の回想は違う。ヘビを見て、自分から、こちらへ投げてくれと頼んだのだという。受け取ったニクラウスも笑った。
しかも、最初のホールは、ニクラウスがバーディー。トレビノはボギーだった。
ヘビを見せられた王者は、ちゃんとバーディーを取っている。
そこから、トレビノは68で回った。ニクラウスは71。三打差で、二度目の全米オープンを勝った。
ゴムのヘビは、人を笑わせた。 優勝を決めたのは、そのあとに打ったショットだった。
この勝利のあと、他の選手から歓迎され、ようやく仲間になれたと思った、とトレビノは後年語っている。あれほど人懐っこく見える男にも、そんな思いを抱えた時間があった。
四打かかった、その次を入れる
その夏、トレビノは全米オープンに続き、カナディアン・オープン、全英オープンも勝った。
翌1972年には、ミュアフィールドで全英を連覇する。ただ、その勝ち方は、相手にとって、たまったものではなかった。
最終日の17番、パー5。トレビノとトニー・ジャクリンは並んでいた。
ところが、トレビノはティーショットをバンカーへ入れ、四打をかけても、まだグリーンの外にいた。一方のジャクリンには、バーディーパットが残っていた。
トレビノは、そこからのアプローチを入れてしまう。五打で上がって、パー。
ジャクリンは三パットし、ボギーになった。最後のホールでもボギーを打ち、三位。トレビノは、先に上がっていたニクラウスを一打差で抑えて勝った。
ティーショットでつまずき、四打かけても乗らなかった。それでも、スコアカードに残るのはパーだった。
前日にも、終盤にバンカーショットとチップショットを直接入れていた。ジャクリンは、何度もその光景を見せられていたのだ。
雷のあとも、終わらなかった
全米と全英で二勝ずつ。1974年には全米プロも勝った。四大メジャーのうち、マスターズだけは、生涯勝てなかった。
そして1975年、ウェスタン・オープンで落雷に遭う。
助かったものの、その後は背中や腰の問題に苦しみ、手術も受けた。笑って話せる人だからといって、体まで平気だったわけではない。
それでも、1984年の全米プロで、また優勝する。44歳だった。
この大会の少し前、彼はオランダでパターを買っていた。その一本がよく入り、四日間のスコアは69、68、67、69。四打差で、六つ目のメジャータイトルを手にした。
もう一度勝ちたいから、道具も試す。体の問題を抱えながら、四日間を戦い抜いた。落雷から九年がたっていた。
五十歳からのシニアツアーでも、29勝を挙げた。レギュラーツアーと同じ数だけ、もう一度勝っている。
子供には、いつでも球を打てる場所を
後年、トレビノはPGA TOURの取材で、子供たちが無料で使えるコースや、いつでも球を打てる練習場を増やしてほしいと訴えた。
九ホールでも、十八ホールでもいい。自分たちの場所があれば、好きな時に、好きなだけ練習できる。
家計を助けるために畑で働いた少年は、ゴルフで暮らせるようになった。大スターになったあとも、子供がボールを打つためのお金を気にかけていた。
ポケットの2ドルを笑い話にする男は、次の子供たちには、無料で遊べる場所を残してほしいと話した。