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LISTEN GOLF第8回・オールド・トムとヤング・トム

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オールド・トムとヤング・トム――父がつくったコースで、息子は父を追い越した

父も、息子も、全英オープン4勝。短いパットを冷やかされた父と、17歳で父を破った息子。競い、組んで戦ったモリス父子の物語。

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オールド・トムとヤング・トムの物語を聴く

約9分36秒 · 一人語り

左にオールド・トム、右にクラブを構える息子ヤング・トム・モリス

オールド・トム(左)とヤング・トム(右)。1870〜1875年頃。

写真:Thomas Rodger / Wikimedia Commons / 出典 / パブリックドメイン

掲載用に縮小・WebP変換。写真の構図は変更していません。

父も、息子も、全英オープンで四勝。 オールド・トム・モリスは、コース造りと芝の管理にも大きな足跡を残した、近代ゴルフの礎を築いた人だ。息子のヤング・トムは、十七歳で全英を制し、休止年を挟み、全英の四大会連続優勝を成し遂げた。

息子が初めて全英を勝ったとき、二位にいたのは父だった。

一八六八年、スコットランドのプレストウィック。前年の王者オールド・トムは、最後の十二ホールを残して、息子に一打リードしていた。ところが、十七歳の息子は、そこを四十九打で回ってしまう。父を三打差で破り、初めての全英王者になった。

このコースを最初に造ったのは、父である。 父の仕事場で育った息子が、父の知り尽くしたコースで、父を追い越した。

「短いパットを外す男」で、手紙が届く

オールド・トムという名前には、長いひげを蓄えた、いかにも威厳のある老人がよく似合う。

けれど、初めからゴルフ界の長老だったわけではない。若い頃は、名手のもとで、ボールやクラブを作っていた。

当時のボールの一つは、革の袋に羽毛を詰めたものだった。そこへ、樹脂状の素材を使った「ガッタパーチャ・ボール」が現れる。従来のものより安く、丈夫な新製品だ。

古いボールを作っていたロバートソンにとっては、商売を脅かす存在だった。一方のトムは、その新しいボールを使った。二人はそれをめぐって衝突したと伝えられている。

若いトムは、新しい道具を試すことにためらいがなかった。

その後、一八五一年にプレストウィックへ移り、コースを造り、管理を担うようになる。全英オープンの誕生にも関わり、選手として四度優勝した。

そんな名手にも、短いパットという苦手があった。 プレストウィック・ゴルフクラブの人物紹介には、こんな逸話が残っている。

「プレストウィックの、短いパットを外す男」宛ての封筒が、ちゃんとトムのところへ届いたというのだ。

四度の全英王者に、なかなか容赦のない宛名である。 郵便屋が迷わず届けられるほど、その弱点まで知られていたらしい。

十三歳の息子が、全英王者を負かす

息子のトミーは、父の仕事場だったプレストウィックで育った。

父が管理する芝で遊び、父からゴルフを教わったトミーは、十三歳でその父を負かした。

一八六四年、セントアンドリュースでの親善のラウンド。十三歳のトミーが、父を初めて破った。相手は、その年の全英王者だった。

四年後には、遊びの一勝では済まなくなる。全英オープンの優勝と二位に、同じ名前が並んだ。優勝は若い方のトム。二位は父のトムだった。

二人は、互いに勝ち負けを争うだけの関係ではなかった。組んで試合にも出ている。

当時は、後援者が金を出し合う挑戦試合が、大きな見せ場だった。父と息子が組むこともあれば、ライバルのたちと戦うこともある。

全英では優勝を争い、挑戦試合では組んで戦う。父に教わっていた息子が、いつしか父のライバルにも、相棒にもなっていた。

勝ちすぎて、優勝賞品を持って帰った

トミーの試合には、思わず声を上げたくなる一打があった。

一八七〇年の全英。プレストウィックの最初のホールは、五百七十八ヤードあった。トミーは二打で前進し、まだ約二百ヤードを残す。グリーンの見えないところから打った三打目が、旗竿に当たり、そのまま入った。

五百七十八ヤードを、三打。

今のクラブでも驚くようなことを、十九世紀の道具でやってしまう。この日の最初の十二ホールは四十七打。大会は十二打差で勝った。

この三連覇で、優勝賞品までトミーのものになった。

当時の優勝賞品は、銀のカップではなく「チャレンジ・ベルト」だった。三年続けて勝てば、自分のものにしてよい、という決まりがあった。

トミーは、一八六八年、六九年、七〇年と勝った。 決まりどおり、ベルトは彼のものになった。

次の王者へ渡す賞品がなくなり、新しい賞品と開催体制をめぐる話し合いもまとまらない。翌七一年、全英オープンは開かれなかった。

三連覇したら持って帰ってよい。その約束を果たしたら、翌年の大会が開けなくなってしまった。

七二年に再開すると、またトミーが勝った。休止を挟んだ四大会連続の優勝である。父と同じ四勝に、二十一歳で並んだ。

新しい優勝杯として用意されたのが、今のクラレット・ジャグだ。ただし、この年は製作が間に合わず、トミー本人には渡されていない。翌年、が最初の受領者になった。

それでも、杯に最初に刻まれたのは、一八七二年の王者、トミーの名だった。

下手な人にも、回り道がある

息子が派手なプレーで人を集める一方、父は、人がゴルフをする場所そのものを変えていった。

セントアンドリュースへ戻った父は、オールドコースの改良を進める。グリーンを広げ、芝に砂を施し、コースの状態を整えた。

すでに長い歴史のあったオールドコースを、父は少しずつ改良した。

英国のグリーンキーパー協会BIGGAの回顧によれば、トムはフェアウェイを広げ、茂みを取り除き、上手でない人にも進める道を増やした。難所の上を飛ばす力がなくても、脇から回っていけるようにする。

自分は、全英オープンで勝てる。 けれど、来る人みんなに、その腕前を要求しなくてもいい。

フェアウェイを広げ、回り道を用意する仕事には、そんな気遣いを感じる。息子の妙技を見に集まる人もいれば、自分の下手なゴルフを楽しみに来る人もいる。その両方がいる町で、彼は働いていた。

二十四歳のクリスマス

一八七五年九月。父と息子がノースバーウィックで挑戦試合をしていた時、トミーの妻マーガレットが、出産で危険な状態にあるという知らせが届いた。

二人は帰宅を急いだ。しかし、妻も、生まれた子供も亡くなっていた。

その年の全英に、父子は出場しなかった。 そしてクリスマスの日、トミーも亡くなる。二十四歳だった。

トミーは「悲しみで心が壊れた」とも語り継がれている。死亡証明書に記されているのは、肺出血による呼吸停止だった。

父と並んで試合を回るトミーの姿は、もう見られなくなった。

父には、そこからも長い人生が残された。

それでも、コースには人が来る

息子の死から二十年以上たった一八九五年、セントアンドリュースのニューコースが開場する。設計を担ったのは、オールド・トムだった。

一九〇一年、八十歳になった父の姿を、地元紙が伝えている。リンクスを歩き、コース管理の仕事に目を配り、時には自分でもクラブを振る姿だった。

悲しみが少しずつ薄れていったのか。それとも、仕事をしている間は気が紛れたのか。

息子を失ったあとも、父はゴルフの仕事を続けた。オールド・トムが亡くなったのは一九〇八年。八十六歳だった。

息子を見送ってから、三十年以上。その長い年月にも、父のそばにはゴルフがあった。

かつて十三歳の息子に負かされた日も、その息子と組んで勝負した日も、父はどれほど思い出しただろう。

一八六八年の全英では、優勝と二位に、同じトム・モリスの名前が並んだ。 父がつくったコースで、息子は父を追い越した。