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ゴルフ場は 消えても 「朝霞」は 残った 市名の きっかけに なった 18ホールの 移転
埼玉県の「朝霞」という地名のきっかけは、ゴルフ場の移転だった。そのコースはもうない。それでも、1932年に選ばれた町の名前は、現在の市名へと受け継がれている。
膝折村が「朝霞町」になった日
朝霞市の説明によると、1930年、東京の駒沢にあった東京ゴルフ倶楽部のゴルフ場が、膝折村へ移ることになった。それを機に、村名を改め、町制を施行しようという機運が高まった。
新しい名は、当時の倶楽部名誉会長だった朝香宮にちなむ「朝霞」。1932年5月1日、朝霞町が誕生した。ゴルフ場が街をゼロから造ったのではなく、もともとあった村が、移転をきっかけに名前を変えたのである。
同じ日に開場した朝霞コースは、18ホール、6700ヤード、パー69。設計はC・H・アリソンだった。東京ゴルフ倶楽部の公式史は、当時「東洋一」といわれたコースとして紹介している。
用地は軍へ。コースでの最後のプレーは翌年
しかし、その地で長く続くことはできなかった。陸軍予科士官学校の用地として買い上げられることになり、倶楽部は1940年、狭山の秩父カントリー倶楽部と合併して再び移転した。
土地の譲渡と、実際にプレーできなくなった日は区別しておきたい。施工を担った鹿島の史料紹介によれば、売却を承諾する手続きが完了したのは1940年9月。朝霞での最後のプレーは1941年3月16日で、コースは翌日に閉鎖されたという。
18ホールは失われたが、町名は消えなかった。改称に際して膝折村が出した伺いへの回答書も残り、市指定有形文化財の「町名改称許可書」として、2006年から朝霞市博物館で保管されている。
倶楽部の側にも名前は残る。現在の狭山のコースでは、2009年に新グリーンを「朝霞グリーン」「知々夫グリーン」と名づけた。朝霞の18ホールそのものを移したわけではないが、かつての場所を名前で受け継いでいる。
地図にある朝霞と、ゴルフ場にある朝霞グリーン。消えたコースの歴史は、どちらの名前にもつながっている。
3行まとめ
- 埼玉県朝霞市の名は、東京ゴルフ倶楽部が当時の膝折村へ移転することになったのをきっかけに生まれた。
- 1932年に朝霞町が誕生。
- 名前は倶楽部の名誉会長だった朝香宮にちなむ。
出典:city.asaka.lg.jp(2) / tokyogolfclub.jp / kajima.co.jp
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