コラムコース・カルチャー
皇族が 始球式、 それでも 2年足らずで 消えた 18ホール 井上誠一の 久里浜
理事長は徳川家の当主、始球式は皇族。若い井上誠一が設計した18ホールには、そんな華やかな始まりがあった。それでも、ゴルフ場として存在したのは2年足らずだった。
神奈川県横須賀市にあった久里浜ゴルフ場の話だ。日本ゴルフ協会(JGA)の歴史資料によると、仮開場は1935年12月13日。6600ヤード、パー73のコースだった。
「音楽の殿様」が理事長に
理事長の徳川頼貞は、紀州徳川家の第16代当主。国立国会図書館の人物紹介には、英国ケンブリッジ大学で学び、音楽文献や古楽器を集め、南葵楽堂を建ててパイプオルガンを備えた経歴が載っている。ゴルフだけでなく音楽文化にも深く関わった人物だ。
仮開場の式典には朝香宮鳩彦、久邇宮朝融が出席し、朝香宮が始球式を行った。JGAは、地元で「宮様ゴルフ」と呼ばれたと紹介する一方、その顔ぶれが集まった詳しい経緯は定かではないとしている。皇族専用のコースだったという意味ではない。
設計者は、まだ27歳だった
霞ヶ関カンツリー倶楽部の資料では、井上の生年月日は1908年8月1日。久里浜の仮開場時は27歳になる。
同倶楽部は、井上が戦前の旧西コース建設や東コース改造にも関わり、現場で技術を学んだことを伝えている。久里浜は、後に大洗や日光などを手がける設計家の、ごく初期の仕事だった。
しかし、1937年に日中戦争が始まると、コースは間もなく軍の訓練用地へ転用された。さらに食料増産のため、水田や畑として開墾されたとJGAは記す。短命だったからといって、設計や経営の失敗だったと決めつけることはできない。
残ったのは、当時の風景
JGAのページには、1937年発行の絵葉書集『久里浜の風光』に残るコースの姿も紹介されている。
写真が残っていても、それだけで全ホールの配置や攻略法を復元できるわけではない。当時のグリーンを今の街のどこかへ正確に重ねることも、今回の資料ではできなかった。
名前の残る設計家の作品でも、現在プレーできるものばかりではない。久里浜の18ホールは、若い井上がつくったコースをラウンドして確かめる代わりに、開場の記録と一枚の風景からたどる場所になっている。
3行まとめ
- 井上誠一が設計した久里浜ゴルフ場は、皇族を迎えて仮開場したのに、2年足らずで姿を消した。
- 1935年12月の開場時、理事長は紀州徳川家当主。
- 6600ヤード、パー73の18ホールだった。
出典:jga-golfpedia.jp / ndl.go.jp / kasumigasekicc.or.jp
関連記事
川奈の 150ヤードは 本当の 砲台跡 8番の 代わりにも 使われた 「大倉ホール」
3行まとめ
- 川奈ホテルGCの富士コースには、通常の18ホールとは別に、幕末の砲台跡に築かれた約150ヤードの「大倉ホール」がある。
- 11番グリーンの奥、川奈崎灯台の下にあるパー3で、創業者・大倉喜七郎の名を冠している。
- 1957年には8番ホールの代替として使われた記録もあり、単なる記念の一角ではなかった。
ゴルフ場は 消えても 「朝霞」は 残った 市名の きっかけに なった 18ホールの 移転
3行まとめ
- 埼玉県朝霞市の名は、東京ゴルフ倶楽部が当時の膝折村へ移転することになったのをきっかけに生まれた。
- 1932年に朝霞町が誕生。
- 名前は倶楽部の名誉会長だった朝香宮にちなむ。
ホールインワンに 「1時間」? 国境を 4回越える 北欧の 18ホール
3行まとめ
- フィンランドとスウェーデンにまたがるグリーンゾーン・ゴルフは、18ホールのラウンドで国境を4回越える。
- 両国には1時間の時差があり、名物6番では時計の表示上「1時間以上のホールインワン」を狙えると紹介される。
- 球が1時間飛ぶわけではない。