アーノルド・パーマー――キングは、名前を丁寧に書いた
米PGAツアー62勝、メジャー7勝。豪快な勝負師が大切にしたのは、ファンが読めるサインだった。勝利と敗北、家族やライバルとの付き合いから、キングの素顔をたどる。
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約13分11秒 · 一人語り

アーノルド・パーマーと子供(1990年)。Orlando Health所蔵写真。
写真:Orlando Health / 出典 / パブリックドメイン(権利者による公開)
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米PGAツアー62勝、メジャー7勝。マスターズを4度制し、テレビ時代のゴルフ人気を広げたアーノルド・パーマーは、「キング」と呼ばれた。
その大スターが、ある新人選手に、わざわざ礼を言いに来たことがある。
2011年、フロリダのベイヒル。PGA TOURが伝える逸話では、パーマーが声をかけたのは、ツアー新人のウィリアム・マクガートだった。礼の理由は、好プレーでも、優勝でもない。ファンの持ち物に並んだサインの中で、彼の名前だけは読めたからだった。
若手のサインまで見ている。そして、読めたことを、本人に伝えに来る。
豪快なスイングで大観衆を引き連れた男は、そんな細かなところにも目を向けていた。
ゴルフに夢中になり、父にクビにされた
パーマーは、ペンシルベニア州ラトローブで育った。父ディーコンは、地元のカントリークラブでコースを管理し、クラブのプロも務めていた。
パーマー家は、そこに遊びに来る会員の側ではなかった。働く側だった。少年アーノルドもキャディーをし、芝を刈り、プロショップを手伝った。
父からはクラブの握り方を教わった。腹を立ててクラブを投げれば、そんなことをするならゴルフをやめさせる、と叱られた。自分がどれほど上手いかは、口で言うのではなく、プレーで示せ。父の教えは、技術だけではなかった。
もっとも、息子がいつも立派に働いていたわけではない。USGAの父ディーコンの評伝には、ゴルフにかまけて店の仕事をおろそかにし、父からクビにされた話が出てくる。
ゴルフにどれほど夢中でも、それで店番をしたことにはならない。
のちの1971年、パーマーは、そのラトローブ・カントリークラブを買い取る。働いていたコースで、父に叱られ、やがて自分がオーナーになる。ずいぶん大きな出世だが、その途中には、店の仕事をクビになる息子の姿もあった。
七打差でも、まだ終わっていない
1954年の全米アマチュア選手権優勝を経て、パーマーはプロになった。1958年には、初めてマスターズを制する。
彼のプレーは、整った形を静かになぞるようなゴルフではなかった。力を込めて振り、体をよじり、球の行方を追う。見ている側にも、その一打への気持ちが伝わってくる。
1960年の全米オープンは、その魅力が最も鮮やかに表れた大会だった。
チェリーヒルズで迎えた最終ラウンド。パーマーは首位から七打遅れていた。本人の回想によると、親しい記者のボブ・ドラムに、65で回ったらどうなるかと尋ねた。返ってきたのは、それでも君には何の役にも立たない、という趣旨の答えだった。
パーマーは、それに腹を立てたと振り返っている。
そして1番。パー4のグリーンに、ティーショットを乗せた。
最初の七ホールで六つのバーディー。最終ラウンドを、本当に65で回ってしまう。二位のジャック・ニクラウスに二打差をつけて優勝した。ニクラウスは、まだ二十歳のアマチュアだった。
七打差を聞いて諦める代わりに、65ならどうかと考える。無理だと言われて、なおさらやってみたくなる。この逆転には、パーマーの負けん気がよく表れている。
応援団まで、主役になった
パーマーの周りには、「アーニーズ・アーミー」と呼ばれる大きな応援団ができた。アーニーの軍隊、という意味である。
テレビでゴルフを見られるようになった時代に、感情の見えるスターが現れた。難しい場所からでも果敢に狙い、成功すれば観衆を沸かせる。うまくいかない日にも、次の一打を見たくなる。
ただし、その熱狂は、ほかの選手にとって、いつもありがたいものではなかった。パーマーへの声援が、ときには対戦相手の重荷にもなった。
1962年の全米オープン。地元ペンシルベニアのオークモントで、パーマーはプロ転向間もないニクラウスにプレーオフで敗れる。人気者を倒す若者に向けられた空気は、決して温かいものばかりではなかった。
それでも、ニクラウスは後年、戦わなければならなかったのはパーマーのファンであって、パーマー本人ではなかった、と語っている。
相手には勝ちたい。しかし、相手との付き合いまで壊したいわけではない。
二人は食事をし、妻たちも交えてブリッジを楽しんだ。ニクラウスの回想には、張り合うあまり二人ともスコアを崩し、73と75のような数字で、相手に勝ったことを喜んでいた話まである。ほかの選手には負けているのに、二人の間では勝負がついている。
歴史に残るライバルにも、少し子供っぽくなる時間があった。
王様も、海を渡って予選を受けた
パーマーは、目の前の観客だけでなく、ゴルフを見に来る人の輪そのものも広げた。
時間を二年戻して、1960年。マスターズと全米オープンを勝った彼は、全英オープンへ向かった。現在の四大メジャーを一年ですべて制することを目指していたのである。
前回のボビー・ジョーンズが1930年に達成したグランドスラムとは、大会の組合せが違う。ジョーンズの偉業を意識しつつ、新しい時代の四大会を狙う挑戦だった。
当時、アメリカのトップ選手が大西洋を渡るのは、簡単な選択ではなかった。旅費がかかり、賞金はそれほど大きくない。慣れないリンクスで、予選から戦わなければならなかった。
それでも、パーマーは行った。
初出場の1960年は一打差の二位。翌1961年には優勝し、1962年には六打差で連覇した。彼の出場と活躍は、アメリカの選手やファンが全英に目を向ける、大きなきっかけになった。
ただし、四大メジャーのうち全米プロだけは、生涯を通じて勝てなかった。
目先の稼ぎだけではなく、この大会を勝つことに意味がある。パーマーは、そう考える選手だった。同時に、彼が渡英することで、その大会を見る人も増えていった。
勝たせてくれた七打が、今度は消える
ただし、パーマーの物語を、攻めさえすれば道が開ける成功談にしてしまうと、大事な部分が抜け落ちる。
1966年の全米オープン。会場はオリンピッククラブだった。今度のパーマーは、残り九ホールで七打リードしていた。
六年前には、十八ホールをかけて取り戻した七打。その七打が、今度は自分の側にある。
優勝だけでなく、ベン・ホーガンが持つ大会の72ホール最少スコア記録を破るかどうかまで、話題になっていた。
ところが、ビリー・キャスパーが追い上げる。15番、16番でバーディーを奪い、パーマーは15番から17番まで三連続ボギー。二人は通算278で並んだ。翌日の18ホールのプレーオフでも、パーマーは勝てなかった。
キャスパーも、すでに全米オープンを勝ったことのある名手だった。パーマーの失速だけでなく、追う側の見事なプレーがあっての逆転だった。
だが、七打を追いかけた勝利だけではなく、七打を失った敗北も知ると、パーマーの姿は変わって見える。観客がついていったのは、何をしても失敗しない人ではなかった。
午前四時、シーツ姿でもパーマーだった
彼の人懐っこさを伝える、少々変わった逸話もある。
PGA TOURは、ラリー・ゲストの著書に由来する話として、ニュージーランドのホテルでの出来事を紹介している。午前四時、火災警報が鳴り、パーマーはシーツを体に巻いて外へ避難した。
そこで、日本人の宿泊客に気づかれた。そして、写真とサインに応じたという。
大舞台で勝ったあとの、用意されたファンサービスではない。夜中に起こされ、ホテルから出てきた時の話だ。それでも、人に会えば、相手をしてしまう。
大観衆の前ではキング。でも、その時は、同じホテルから避難してきた一人の宿泊客だった。その人が、シーツ姿でサインに応じている。
大きくなった名前を、何に使うか
人気は、大きなビジネスにもなった。1960年から、マーク・マコーマックがパーマーのマネジメントを担うようになる。賞金だけでなく、広告やスポンサー契約でも収入を得る。二人の仕事は、スポーツ選手の稼ぎ方を変えていった。
パーマーは、ゴルフだけをして、あとは人任せにしていたわけではない。
1995年には、実業家のジョー・ギブスとともにゴルフ・チャンネルの開局に関わった。ゴルフだけを、一日中放送する。疑問の声もあった企画である。
公式の回顧記事は、パーマーがスタッフに、もし人生でときどき木々の間を狙うようなことをしてこなかったら、自分たちはここにはいなかっただろう、と話したことを伝えている。
コースで見せた大胆さが、そのまま事業の話にも顔を出す。ただし、そこにはギブスをはじめ、一緒に計画を進めた人々がいた。
もう一つ、パーマーの名が大きな力を持った場所がある。子供たちの病院だ。
1980年代、パーマーと妻ウィニーは、オーランドの新生児集中治療室と小児病棟を訪れた。病院側の記録によれば、彼は、地域の子供たちのために、もっと良くできるはずだと語ったという。
すでに地域の医師たちが、子供のための病院を実現しようと動いていた。夫妻はそこに加わり、名前を貸すとともに、建設資金集めを支えた。ウィニー自身も長く理事を務め、病院への支援を広げる活動に取り組んだ。
1989年、パーマーの六十歳の誕生日に、女性と子供のための病院が開院する。さらに2006年には、ウィニーの名を冠した女性と赤ちゃんの病院も開いた。
パーマー一人が建てた病院、という話ではない。医師や地域の人々、そしてウィニーと一緒に、知名度を、実際に人を助ける場所へつなげていったのである。
キングは、こちらを向いていた
パーマーが最後にマスターズに出場したのは、2004年だった。1955年から、五十年連続。四度勝った大会へ、それほど長く通い続けた。
メジャー7勝は、もちろん偉大な記録である。それでも、パーマーを語る時には、父にクビにされた話や、夜中のシーツ姿まで残っている。勝ち方だけでなく、失敗も、人との付き合い方も、覚えていたくなる人だった。
新人が書いたサインに気づき、礼を言いに行く。自分の名前で支援を集め、妻や地域の人々と病院を支える。
アーノルド・パーマーという名前は、世界中に知られるようになった。
それでも本人は、目の前のファンがちゃんと読めるように、その名前を書いた。
キングは、名前を丁寧に書いた。