ボビー・ジョーンズ――アマチュアの王者が、ゴルフに残したもの
アマチュアとして世界の頂点に立ち、マスターズを共同で作った。その偉大な肩書きの奥にいる、ボビー・ジョーンズという一人の人間の物語。
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約12分27秒 · 一人語り

ボビー・ジョーンズ(1921年)
写真:National Photo Company Collection / Library of Congress / 出典 / パブリックドメイン
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ボビー・ジョーンズは、アマチュアとして世界の強豪たちを破り、主要選手権への挑戦を終えた後には、マスターズを共同で作った。
全米オープン4勝、全英オープン3勝。両国のアマチュア選手権を含め、当時の主要大会で通算13勝。1930年には全米・全英のオープンとアマチュアを同じ年に制した。現在の四大メジャーとは大会の組合せが異なる、当時のグランドスラムである。
弁護士として働きながら世界の頂点を争った彼は、若い選手たちにとっても特別な存在だった。その人柄は、肩書きよりも、彼と接した人の回想によく表れている。
十五歳のジャック・ニクラウスは、ボビー・ジョーンズにプレーを見てもらうことになった。
1955年の全米アマチュア選手権でのことだ。後年のニクラウスの回想によると、ジョーンズは前日の夕食会のあと、二本の杖をつきながら彼を追いかけ、翌日の試合を見に行くと伝えてくれた。
ところが、実際にジョーンズが現れると、ニクラウスはボギー、ボギー、ダブルボギー。ジョーンズは父親のチャーリーに、自分がいてもジャックのためにならないようだ、と告げ、観戦を切り上げたという。
伝説の名手に見られている。その緊張を想像すると、少年の失敗には少し同情したくなる。同時に、せっかく来たのだから最後まで、と居座らなかったジョーンズの姿も浮かんでくる。
ジョーンズが見に来た日のことは、何十年たっても語りたくなる思い出として残っていた。
球聖も、最初から紳士だったわけではない
ジョーンズが、ずっと穏やかで思慮深い選手だったと思うと、話を取り違える。
若い頃にはミスに怒り、クラブを投げることもあった。1921年、十九歳で初めて全英オープンに出場した時には、セントアンドリュースで競技を投げ出している。
後年の本人の文章を読むと、当時の苛立ちがよく分かる。易しそうに見えるのに、思ったようなスコアが出ない。起伏にはね返された球を見ると、コースが不公平で、自分は不運なのだと思っていたという。
第三ラウンドの11番で、とうとうボールを拾った。
世界の名手が集まる大会で、最後までスコアをつけることをやめてしまったのである。のちにスポーツマンシップの象徴となる人にも、そんな失敗があった。ジョーンズは、その頃の自分の態度を、後年の文章に残している。
四年後、1925年の全米オープンでは、まるで違う行動を取った。
ラフから打とうとした時、自分の球が動いたと申告したのだ。ほかの人には確認できなかった動きだったが、彼は当時の規則に従い、自分に一罰打を加えた。
この大会でジョーンズは首位に並び、二度の18ホールのプレーオフを戦った末、ウィリー・マクファーレンに敗れた。あの一打がなければ必ず勝てた、とまでは言えない。それでも、優勝を争っている時に自分に不利な一打を加えた事実は変わらない。
称賛されたジョーンズは、銀行強盗をしなかった人を褒めるようなものだ、という趣旨で答えたと伝えられる。規則に従ったことを、特別な手柄にはしなかった。
若い頃の癇癪を知っていると、この正直さも、生まれつき立派な人だった、の一言では済まなくなる。
アマチュアという生き方
ジョーンズは、主要な選手権で実績を重ねていた時期を、アマチュアとして過ごした。オープン競技でプロを破っても、賞金を受け取る立場にはならなかった。
ここでいうアマチュアは、腕前の話ではない。別に仕事を持ちながら、世界の頂点を争う選手でもありえた。ジョーンズにとっては、その立場を守ること自体にも意味があったのだろう。後年、ニクラウスに寄せた期待にも、その思いが表れている。
ただし、ゴルフから一切収入を得なかった、という意味ではない。1930年に主要選手権への挑戦に区切りをつけた後には、教則映画への出演などで収入を得ている。賞金を受け取らずに競ったことと、ゴルフに関する仕事まで拒んだことは、別の話だ。
その複雑さも含めて伝わるのが、ニクラウスに送った一通の手紙である。
1961年、ニクラウスはプロになる道を選んだ。彼自身の回想によると、ジョーンズの手紙が届いたのは、プロ転向から三、四日後だった。書かれたのは、その決断より前だったという。
ジョーンズは、ゴルフ界を引っ張るアマチュアが必要で、君にはその力がある、と期待を寄せていた。一方で、プロの世界に引かれる気持ちも理解し、最強を目指すなら最強の選手たちと競う必要がある、とも伝えていた。
そして手紙の終わりには、自分は長年スポルディングと良い関係を築いてきた、という話まで添えられていた。
アマチュアの理想を説いたかと思えば、用具メーカーとの付き合いにも触れている。ニクラウスは、この取り合わせを、笑いながら振り返った。
自分と同じ道を歩んでほしい。でも、若い選手が別の道を望む理由も分かる。手紙からは、その両方が伝わってくる。単にプロになるなと言うだけでは、終わっていなかった。
勝負相手とも、昼食は一緒に
相手への親しみと、勝ちたい気持ちを両立させた話もある。
1926年の全英オープン。最終日の午前のラウンドを終え、ジョーンズはアル・ワトラスに二打差をつけられていた。午後には、もう一度18ホールを回る。
その休憩に、ジョーンズはワトラスをホテルでの昼食と休息に誘った。
これから優勝を懸けて争う相手と、同じ食卓につく。だからといって、コースで手加減をするわけではない。午後の17番、ジョーンズはグリーンが見えない難しい場所から、ワトラスの球よりピンに近い位置へ打った。ワトラスは三パット。大会を制したのはジョーンズだった。
この大会では、選手証を忘れ、入口で止められたという逸話も残っている。彼は係の人と争わず、観客用の入口に回って入場料を払った。
優勝候補が、自分の出る試合の切符を買っている。その少し可笑しい姿は、球聖という呼び名より親しみやすい。
自分のゴルフを、コースに残す
1930年、グランドスラムを完成させたジョーンズは、二十八歳で主要選手権への挑戦を終えた。しかし、まだ実現したいことがあった。仲間たちと楽しめる、自分のコースを造ることである。
クリフォード・ロバーツとともに計画を進め、設計をアリスター・マッケンジーに託した。ジョーンズとマッケンジーがともに高く評価していたのは、セントアンドリュースのオールドコースだった。
かつてジョーンズが、不公平だと腹を立てたコースである。経験を重ねるにつれ、その起伏や攻略法の多さに面白さを感じるようになっていた。
安全に進む道もあれば、危険を承知で近道を狙う手もある。自分で考え、選んで打つ。そんなゴルフを、自分たちのコースでも楽しめるようにしたかった。
名選手だからといって、ジョーンズが設計をすべて行ったわけではない。コース全体の配置やバンカーはマッケンジーが担い、ジョーンズはティーや球の落とし所を検討した。完成前の現場で何百球も打ち、プレーヤーの立場から確かめていったという。
そうして生まれたのが、オーガスタ・ナショナルだった。
マスターズという名には、反対した
1934年、ジョーンズとロバーツは、そのコースで大会を始めた。
ロバーツが提案した名前は、マスターズ・トーナメント。ところが、ジョーンズは大げさすぎると考え、反対した。大会の公式資料に記されている話である。
そこで当初は、オーガスタ・ナショナル招待競技会という名で開催された。のちにジョーンズも了承し、1939年に正式名称がマスターズになった。
ジョーンズ自身も出場した。主要選手権から退いた名手のプレーを、もう一度見られる大会でもあった。その後、若いニクラウスが初めてマスターズに来た時には、ロッカーにジョーンズからの招待のメモが入っていたという。父親と一緒に、自分のキャビンへ来るようにと。
コースを造り、大会を始め、今度はそこへやってくる選手を迎える。十五歳の少年を気遣ったジョーンズと、マスターズの共同創設者は、別々の人物ではない。
ボビーが帰ってきた
1936年、ジョーンズは友人たちとセントアンドリュースを訪れた。ジョーンズ家が伝える記録によれば、本人は目立たずに一ラウンドするつもりだったらしい。
だが、話は町に広まった。店を閉めた扉には、ボビーが帰ってきた、と知らせる手書きの張り紙。スタート前から人が集まり、プレーの間にも観衆は増えていった。
この日は、大会の優勝を争う日ではない。それでも町の人々は、彼がプレーする姿を見たかった。ジョーンズは72で回り、握手やサインに応じたという。
1958年には、町の名誉市民に相当するフリーダムを授けられた。病気のため歩くことさえ難しくなっていた彼は、挨拶で、セントアンドリュースでの経験だけでも豊かな人生が残る、という思いを伝えた。
若い頃に競技を投げ出した町が、やがて、そう語れる場所になっていた。
ジョーンズを、金より名誉を重んじた偉人、とだけ描くと、伝わらないことがある。手紙の最後にスポルディングの話を添える可笑しさも、少年のプレーが崩れると観戦を切り上げる気遣いも、その一言には収まらない。
彼は、アマチュアとして勝つことに価値を見いだしていた。同時に、違う道を選ぶ若者にも理解を示した。コースで勝ち、大会を作り、その大会に来る人を迎えた。
ニクラウスは、ジョーンズが実際に球を打つ姿を見たことはなかった、と語っている。それでも、二人の間には、振り返って話したくなる思い出がいくつも残った。
憧れの名手が残したのは、スイングだけではない。自分をどう迎え、どんな言葉をかけてくれたか。その記憶もまた、次の世代へ渡っていた。